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眼鏡の修理、眼鏡の直しはメガネの病院へ プラスチックレンズに賭けた半生-故・今岡貴氏に捧ぐ

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■プラスチックレンズに賭けた半生    故・今岡貴氏に捧ぐ

 私が出張で上京して帰る時、よく見送ってくれる老紳士がいた。今岡貴さんという人だ。晩年は都内の四畳半ひと間の安アパートで、ひっそりと隠れるように一人暮らしをしていた。この今岡さんは、今から40年以上前、日本で初めて眼鏡用プラスチックレンズを商品化した人である。そのために財産を全て失い、スッテンテンになった。

 現在、プラスチックレンズは眼鏡用レンズの90%を占めているものの、40年前は全く市場から相手にされなかった。当時、「軽くて割れない」ことは、「オモチャのようでキズがつく」と嘲笑さえされた。数年前、二人で渋谷の道玄坂を歩いていた。今岡さんはふと立ち止まり、「この店だけが40年前に相手にしてくれたんだ」と言って、「イワキ眼鏡」に目線を送った。すぐに破顔一笑、人込みの中でカラカラと愉快そうに笑った。その高笑いを共有できることを私は少し誇らしく思った。

 実は私が最初に正社員として勤めた会社の社長が今岡さんだった。会社と言っても従業員数10人未満の町工場だった。面接の時、大学を辞めた理由を聞かれなかった唯一の会社であった。聞いても仕方ないと今岡さんはそう言った。それも印象的だったが、ちっぽけな町工場の社長の雰囲気ではなかった。明日を見ているような、その目は輝いていた。身体全体からオーラが出ている感じがした。私にたまたま時間があり、次の訪問先の通り道だったというだけで面接を受けた。それが今岡さんとの出会いだった。

 昭和20年代後半、今岡さんの友人がバスケットボールの試合中、掛けていた眼鏡が割れて失明するという事故が起きた。当時、今岡さんは大手水産会社で魚群探知機の開発部に籍を置いていた。年令は30才になるかならないかぐらいの頃だ。今岡さんは友人の悲劇を自分のことのように嘆いた。眼鏡さえ割れなければ・・・。今岡さんが眼鏡用プラスチックでレンズを作ることを決意するのに、それほどの時間はかからなかった。

 今岡さんは、周囲の反対を押し切り、会社を辞め、品川(東京)に小さな工場を建てる。当時はプラスチックといっても、辛うじてレンズの形になる材料はアクリルしかなかった。精度が出ない。キズが付く。熱に弱い。「おもちゃのレンズじゃないか!」。持ち込む眼鏡店の先々で言われる。プラスチックのメリットである「軽さ」が余計に「安物感」を助長していた。

 さっぱり売れないばかりか、安定して良品を生産する技術的な見通しも立たないまま、赤字だけが膨らみ続けた。そんな中、アメリカで熱硬化性(熱を加えると固まる)樹脂の生産が始まったとの情報が入る。CR−39という商品名である。熱に強く、眼鏡レンズのほか様々な用途に期待されているという。

 今岡さんはすぐにこのCR−39に飛びついた(後に眼鏡業界では、このCR−39がプラスチックレンズの代名詞となる)。しかし原料がどんなに優れていても、それをレンズに成形するのは容易ではなかった。どのくらいの時間、何度の熱を加えるのか。化学変化を促進させるための触媒は何がいいのか。膨張してから収縮して硬化するというやっかいな原料に苦しめられる。ほとんどデータがないのだ。昭和は既に30年代へと突入。今岡さんは田園調布にあった自宅を手放していた。

 昭和30年代半ばになる頃、ようやく商品らしきものを生産できるようになる。それでも時代はまだガラスレンズ一辺倒。プラスチックレンズを扱うような眼鏡店は余程の変わり者だった。そんな中で今岡さんを励まし、店内にプラスチックレンズのコーナーまで作ってくれた店があった。この店が前述した「イワキ」であった。

 自己資金を使い果たした今岡さんの仕事は、いつの間にか「資金調達」がその大半を占めるようになる。品川の工場も会社ごと売り渡す(帝人グループに売却、その後「テイジンレンズ」として特殊なレンズを生産していた)。さらに、それまで蓄積してきた技術を大手メーカーに切り売りする。それでも自ら生産する夢は捨て切れず、また会社を興す。赤字が累積し、手放す。また新たなスポンサーを探す。これを何度も繰り返していた。

 実に皮肉なことだが、今岡さんが会社を興し、それを手放すことを繰り返したことで、確実に、CR−39を原料にしたプラスチックレンズが認知され、生産技術も知られるようになっていったのだ。昭和40年代となると、大手が真剣に取り組みはじめる。そして50年代終わりには、HOYA、ニコン、セイコーの3社が国内販売の90%以上を占めるという寡占状態が確立する。今岡さんの入り込む余地はほとんどなくなりつつあった。

 私が今岡さんと知り合ったのは、昭和56年の春のこと。既に今岡さんの技術は先端的とは言えず、設備も貧弱なものだった。品質も決して良いとは言えず、販売も不振が続いていたようだ。思うに、昭和40年前後の技術水準から抜け出せずにいたのかもしれない。「カネ」と「人」が決定的に不足していた。入社して半年後、この会社のオーナーが変わる。今岡さんは経営不振の責任を取らされて更迭された。今岡さんがいなくなった会社には何の魅力もなくなっていた。私も後を追うように会社を辞めた。

 それから3年後、今岡さんがまた新しい会社を興す。今度は特殊なプラスチックレンズを生産するというものだ。それまでの偏向レンズは、偏向フィルムとレンズを張り合わせたものだったが、今岡さんはこれを一体成形で作ろうとしていた。CR−39偏向度付きサングラスの商品化であった。しかし、これもまた時代が少し早かった。材料の偏向フィルムに良いものがなかったのだ。またしてもパイオニアの苦労を背負い込む格好となった。

 そんな頃、今岡さんからプラスチックレンズ製造技術指導の話を聞かされる。当時の私にとって、そのノウハウ料は破格のものだった。今岡さんは資金に困窮していて、藁にもすがる気持ちが伝わってきた。私は引き受けた。今岡さんにもノウハウ料の一部は回ったが、焼け石に水だったようだ。その1年後、新しいスポンサーも見つからないまま、今岡さんにとって初めての倒産を経験する。そして今岡さんは2度と眼鏡業界には戻ってこなかった。時代はガラスレンズをプラスチックレンズが逆転する頃にあった。

 1999年11月、私は日帰りで上京した。早朝、最寄りの駅に車を走らせていた。途中、今岡さんの電話番号を控えてくるのを忘れたことに気付いた。今回は、ビジネスランチを食べて帰るだけの用件だった。今岡さんに会う時間があるかどうかわからなかった。しかし駅が近付くにつれて、気になり始めた。以前使っていた携帯電話には記憶させていたのだが、新しいものに代えてから登録を怠っていた。結局引き返して、今岡さんからの年賀状を探し出し、それを胸の内ポケット慌てて入れた。会う会わないは別にしてこれでホッとした。

 商談は2時間ぐらいで予想より早く終わった。胸の内ポケットの年賀状が無性に嬉しかった。今岡さんに電話をすると、東京駅へすっ飛んできた。八重洲口の喫茶店で1時間程、気楽な話をした。今岡さんのことをインターネット上にちょっと書いたことを話した。何人かの人が感動してくれたと言った。実話というのは力があるものですねと言うと、あんたの文章に力があるんだよと、目を少しウルウルさせていた。私は今岡さんの人生に力があったんですと言った。ふともう一度、今岡さんを社長と呼びたい衝動にかられた。別れ際、「カネ以外のことなら何でも言ってよ」と笑いながら、今岡さんは菓子折りをひとつ手渡してくれた。

 「明日はきっといいことありますよ。そんな気がするんだ。うん、うん」。今岡さんはそう言って、満面の笑みで片手を振った。それが最後の別れとなった。

明日はきっといいことありますよ。そんな気がするんだ。うん、うん。






故・今岡貴氏の写真

【今岡貴】1924年函館に生まれる。慶応大学卒業後、大手水産会社に勤務。30才を前に退社。ベンチャー企業家として歩む。その半生を眼鏡用プラスチックレンズの開発に捧げる。日本における眼鏡用プラスチックレンズの生みの親。特許多数所有。コンニャクを精製してコンタクトレンズを作るという特許まであった。酒好き、女好き、ギャンブル好き。だが一番好きだったのは「未常識」。よく笑ったが、カラオケだけは真剣な表情で懸命に歌った。ディックミネが十八番。何か言った後、自ら「うん、うん」と頷く癖があった。「明日はきっといいことありますよ、うんうん」。明日を見ながら、2000年に永眠。

突然ですが、6月4日は「プラスチックレンズの日」です!って勝手に決めました(^^;
その理由は、今岡貴氏が生まれた日だからです。
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