メガネ修理日記(?)

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2004年11月28日(日) 老眼鏡、そして父、帰る

このところ老眼鏡が手放せなくなってきた。今も、パソコンのモニター画面を見るのに、老眼鏡のお世話になっている。
そう言えば思い出すことがある。父も私ぐらいの年齢の頃から、新聞を読むのに老眼鏡を掛けていた。それはたまにであったが、子供心になぜか新鮮に映った。

先日、叔父の家へ遊びに行った。もう88歳になる。父より9つ上である。腰が悪く歩行が困難となっている。本当はもっと頻繁に顔を出してやりたいと思っているが、今回は我が家の柿のお裾分けを理由に足を運んだ。
この叔父に昔の話を聞くのが私は好きだ。特に戦時中の話は、同じ話を何度聞いても、そのたびに新しいネタが入っていて興味深い。
父は15歳で満州に渡った。その正式名称が満蒙開拓団青少年義勇軍と聞かされたのは、初めてだった。どうやら学校の担任の口車にまんまと乗ってしまったようだ。「口車に乗った」などと父の前で言おうものなら、烈火のごとく怒り、鉄拳制裁は免れないだろう。叔父は支那事変で召集され、現地で迫撃砲の破片を受け負傷、除隊していた。そんな経験からか「戦争に行くのと同じだ」と必死で遺留したらしい。それでも父は頑固に行った。自作農とは言え、10人兄弟の末っ子、自分の食い扶持を15歳にして既に案じてのことだと、父から語るともなく聞いた気がする。
満州での暮らしは塗炭の苦しみ筆舌に尽くし難く、などと書いてみたところで、本人の苦労は露ほども伝わぬであろうが、ともかくも父はその苦しみから少しでも抜け出そうとしたらしい。それが、現地での憲兵隊への入隊であった。試験があったようで、相当な猛勉強をしたと父は言っていた。
ほんの少しの出世話も敗戦とともに灰燼に帰す。いや、灰燼に帰すならまだ良かった。憲兵であったことが仇に変わった。文字通りの決死の逃避行となった。3度、満人に捕まる。金品を渡したり、満鉄の社員だったと言い張り難を逃れる。ようやく奉天(ほうてん)に着き、日本料亭の女将(京都の人らしい)に匿われたそうだ。数ヶ月、旅順(りょじゅん)からの引き揚げ船を待つ。ようやく順番が来たもののその直前に疫病に倒れる。
その頃、叔父に一通の手紙が届く。九州からの手紙だ。「弟さんは生きている。引き揚げ船に乗る直前に疫病に倒れ、旅順で手当を受けている。治癒後、すぐに帰国するはず」とあった。叔父は疑った。当時はこの手の詐欺が横行していたためだ。行間に疑いを滲ませた手紙を叔父が送ると、その九州の人は疑うのであればそちらに出向き詳細を語ると再度手紙を寄越して来た。
そうこうしていると、近所の人が最寄りの駅で父らしい人物がうろついていると、血相を変えて知らせに来た。叔父は自転車に飛び乗ると。一目散に駅へと向かった。ほどなく父は見つかった。その姿は「ゴボウ」のように、黒く、そして細かったそうだ。なぜまっすぐに家に帰らないのだと問うと、「負けたから恥ずかしい」と父は言ったそうだ。私が「ほぉ〜」と感心とも感嘆とも付かぬ声を上げると、叔父は、少し小さい声で「軍国主義とはそういうもんだ」と自嘲気味にふっと笑った。ともかく、こうして父は無事に帰った。

私の老眼の進み具合は、どうも父の同時期と同じぐらいのようだ。来年、そんな父が死んだ年齢に、私は追いつく。「ここはお国の何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて」 哀調のある旋律とともに父の声が聞こえてくるような叔父の話であった。

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